北極のペンギン

来た観た聴いた

「白馬に乗った王子様」の、その先

METライブビューイングでローエングリンを観た。

この作品は演出違いでいくつか観ているけれど、毎回違った印象を持って面白い。今回の演出はスターウォーズのような雰囲気(と言っても、実は私はスターウォーズを観たことがないので的外れかもしれない。想像上のスターウォーズ)。宇宙戦争の後の荒廃した帝国のようなポストアポカリプス的雰囲気の地下のシェルターの中に舞台となるブラバント公国がある。そこへやってくる異邦人のローエングリンはビジネスマンのような白シャツ。なんか、ローエングリンが白シャツ着せられてる演出、前にも観たな……。そんなイメージ?と思うけど、敢えて立派にしすぎないようにしているのかも。マスゲームのような合唱の衣装は、最初ちょっと直接的すぎない?と思ったけれど、舞台が進むにつれて鮮やかに巧妙な機微を示し画面を印象的なものとしていた。カメラワークもかっこいい。

本作のヒロインであるエルザに対して、私は、嫌いではないにせよパッとしないイメージを持っていた。純粋で優しいけれど、オルトルートに付け入られ騎士を信じきれずに約束を破ってしまう、無垢で愚かなお姫様。今回は、そんなエルザの心の揺らぎや切実さがリアリティを持って伝わってきて印象的だった。翻訳との相性もある気がするし、エルザ役のT・ウィルソンの歌唱力や演技力による部分もあると思う。
「自分の素性や名前を尋ねてはならない」という条件で騎士はエルザを救い、エルザはそれを承諾した。疑問を持ってはいけないという立て付けと、その無垢な信頼が綻び訪れる破滅は、教訓めいたものにもなり得るし、もっと実存的な問いかけにもなり得る。絶体絶命の危機にただ祈るしかできなかったエルザに訪れた、夢に見た輝かしい騎士様は、その状況においては唯一のよすがで、エルザにしてみれば「信じる」一択だ。だけど弟殺害の疑いが晴れ地位を回復したときに、油断や綻びが出てくるのはとても人間らしい。勝手なようだけど、そもそも孤立無援で冤罪の裁判にかけられている状態の方が異常ではある。エルザは育ちがよくて純粋で優しい箱入り娘。自分を貶めたテルムラントとオルトルートが、自業自得で(むしろ温情をかけられて)追放処分となったのに、彼らにちょっと被害者面されただけで同情してあっさり赦し、憐れみをかけ、騙されてしまう。オルトルートが言うように彼女の甘さや傲慢さが彼女の破滅を招く。ただ、普通に騙す方が悪いし、今回のオルトルートは清々しいほどの悪役に徹していて、それがまたとても良かった。C・ガーキーのインタビューで「オルトルートを演じるときは、ここに居る人間で自分だけが唯一正しいと思ってやっている」と語っていたが、まさしく、そうでなくっちゃ!と思った。オルトルートはキリスト教と対立する古い神の信仰を持っていて、それは正義と悪ではなく、正義と正義のぶつかり合いだ。やり方は完全に悪役だけど、大義のために偽善をも肯定するのがオルトルートだ。

話が逸れたが、そのオルトルートによって2幕でエルザに植え付けられた不安の種は、3幕でついにこらえ切れずに萌芽する。最初は、騎士が持つ苦しみを分けてほしい、自分にだけは本当のことを教えて欲しいという傲りにも似た懇願だった。それを拒絶され、説得されるほどに、エルザの不安は性質を変えて大きくなっていく。信じてもらえない自分と、未来への不安。騎士の正体を訊いたところでそれが解決するわけではないのだけど、答えてもらえないことそれ自体が不信の種になっていく。その不信とは、相手への不信以上に、自分自身へ自信のなさだ。ローエングリンはエルザを安心させようと、自分の素性を語らないまでも、輝かしい背景を持つ人間であることを示そうとする。それを捨ててでもエルザを愛する、エルザが自分を信じることの価値はその犠牲に勝ると言う。それが逆効果で、「犠牲」だなんて言うから、自信を失っているエルザは余計に不安になってしまう。自分の美しさが衰えたら、その価値判断は逆転するのではないか。ローエングリンの答えとエルザの本質的な戸惑いは食い違っていて、決定的な破滅を招いてしまう。ローエングリンは大げさな話だけど、実際のところ、素朴な人間関係のすれ違いが描かれている。

音楽的な観点から、ローエングリンのテーマとエルザのテーマは調が隣り合っているけど調和しないので結末を暗示しているという解説があったが、まさしく近いようで噛み合わない彼らの問答を象徴しているように思う。

 

ところで、今この記事を書こうとして気づいたけど、春祭のニュルンベルクのマイスタージンガーとタイアップキャンペーンをやっていたみたい。両方観たのに気付かなかった……。金額云々より、「あっ、やっちゃった」という気持ち。

とはいえ、マイスタージンガーローエングリンを一緒に観ることで見えてくるものは確かにある。両者ともに、内容にドイツのナショナリズムを感じる作品だし、実際に政治的に利用されてきた歴史を持つ。「芸術と政治は別」とよく言われるし、私もそういう考えを持つ方だけど、でも、完全に切り離すことも難しい内容だと思う。今の感覚でまともに受け取ると引っかかるような箇所はどうしてもある。それはその時代のものであって、全て現代の物差しで測るのも違うとは思うけれど、現代に上演するからにはそれは現代の作品としての価値をもつ。そういった作品をどのように表現して見せるかも、興味深い点のひとつだ。

ローエングリンの幕間のインタビューでもこういった話があった。
作品は時代を経る毎に普遍的な意味を持ち、観られ方も変わる。現代において観客が関心を持つのは、恋人たちのことや、肩書を取り払った自分の価値といった個人的なテーマで、それは本来想定されていた以上の意味を持つだろうと語られていた。観劇の体験は観客のものだと思うので、その変質に対して肯定的である点に救われるし、創る側の観点としても、時代に合わせたテーマにフォーカスして魅せることができるのが演劇的表現の面白いところだと思う。脚本は変わらなくても、演出は変化していく。変わらないものと変わりゆくものがあって、作品が継承されて行く。舞台は生き物だと言われるが、長い目で見たときにも、それは生命の営みに似ていると思った。

 

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