北極のペンギン

来た観た聴いた

そうね誕生石なら

想像上の7月は、情熱的だがどこか掴めない、颯爽としたミステリアスさがある。

それなのに実際の7月ときたら、ただただ殺人的に暑いばかりだ。

 

7月上旬、一泊二日の箱根旅行へ行った。

初日、雨でロープウェイは運休だったが、強羅は小雨だったのでそれほど酷くないだろうと高をくくってバスに乗り芦ノ湖方面へ。甘かった。標高が高くなるにつれ霧が濃くなり、芦ノ湖周辺はさながらサイレントヒルの世界だった。個人的な箱根の定番・山のホテルのりんごパイを食べながら、芦ノ湖……があるはずの方向に広がる真っ白な靄を眺めてきた。ティータイムの優雅さと景色の不穏さが不釣り合いに感じられて愉快だった。

山のホテルのりんごパイは目の前でソースを盛り付けてくれる

2日目も雨。ラリック美術館へ行き、オリエント急行の車両内でお茶をいただく。美術館の展示でラリックの作品の軌跡を鑑賞してからオリエント急行のこだわり抜かれた空間に踏み入ると、ラリックが創り出す世界観に浸る感慨も一入だった。芸術と工芸が交わる分野で活躍した人だからこそ、作品単体で鑑賞する以上に、実際に人が過ごす空間にあしらわれることで発揮される本領があるように感じた。

午後は湯治場の日帰り入浴へ。電子機器に触れず縁側に寝転がり蝉の声や川のせせらぎに耳を澄ませると、昂った神経が鎮まるような心地がした。

私は楽しいことが大好きで、常に刺激を求め、より強い刺激を求めるような生活をしているが、いくら刺激を浴びてもその渇きが癒えることはない。穴の空いたバケツに水を注いで更に穴を拡げているような心地すらある。必要なのは引き算かもしれないと気づく、よい時間だった。

 

そんなことを言いながらも、翌週は広島へ。目的は乃木坂46のライブ。

この夏は忙しく、うっかり全国ツアーのチケットを取り過ぎてしまったという気持ちもあったが、そんな気持ちを吹き飛ばすくらい素晴らしいライブだった。まだツアーが終わっていないので細かな言及は避けるが、キラキラした最高の夏のはじまりだ。新しい時代が始まるワクワク感。変化しながら常に前へと進んでいく乃木坂ちゃんのしなやかな強さが好きだ。

2日目は宮島へ。厳島神社の美しさよ。その時代を生きた人たちの美意識の粋を感じる。何度見ても素晴らしい。

いつも干潮時に行ってしまうので次は満潮の時間を調べて行きたい

軽い夕食を済ませ帰路につく。今は夏でも生牡蠣が食べられると聞いて楽しみにしていたが、数が少なく、お店に着いたときには終わってしまっていた。夏の牡蠣はまだ貴重なようだ。

 

更に翌週は沖縄へ。本当に狂ってる。目的はまた乃木坂46のライブ。

沖縄の市街地を少し歩いただけでも、植生や日差しの違い、特徴的な建物の構造や装飾など、見るものすべてに興奮して忙しかった。ヤシの木をはじめとする熱帯植物は、関東でも観光地に植わっていたりするけれど、なんだか寒々しい違和感があるものだ。これが沖縄では生き生きとしっくりきて、私は緯度の違いによる光の違いの影響が大きいんじゃないかと思っている。絵画なども画家の生まれ育った土地によって色のトーンが違うと感じる。日々触れている自然の色彩が芸術にも反映されると思うと、大きな自然の営みの中にある人間の営みがなんだか愛しく感じられる。

色彩の話をしつつ、それに相当する写真をほとんど撮っていなかった

それにしても、とんでもなく暑かった。沖縄って、暑いけど湿度はそれほど高くないのかと思っていた。そんなことはない。普通に蒸し暑い。1か所出かけてはホテルに立ち寄りシャワーを浴びてからまた観光に出るような有様だったが、そこまでする甲斐のある楽しい旅だった。

 

 

7月の私は異常なのでほかにも行った場所がある。

 

牧阿佐美バレヱ団『三銃士』/新国立劇場

個性豊かな登場人物が生き生きと活躍し、動きがコミカルかつ華麗で楽しかった。お話が分かりやすいので子供から大人まで楽しめる。やっぱりダルタニアンが出てくると輝かんばかりの主人公感があってテンションが上がる。

 

ミュージカル『ムーラン・ルージュ!』/帝国劇場

念願のムーラン・ルージュ!華やかで享楽的で頽廃的、人間の欲望も悪徳も呑み込んで大輪の花が咲き乱れる世界、最高でした。

井上クリスチャンと平原サティーンの組合せで二度観劇。伊礼公爵とK公爵。気品があって威厳がある分残虐さを感じる伊礼公爵、ゲスいごろつきの器の小ささと暴力性を感じるK公爵、全く違った役作りで、どちらも納得感があり面白かった。

煌びやかなムーラン・ルージュの世界

ステージに全てをかけるサティーンの生き様はエゴイスティックだが美しい。私が死んだら、下品な歌を歌ってという願いはフィナーレの華々しいショーによって果たされているのだと感じた。形に残らないもの、華やかさと裏腹に儚いもの、だからこそ心に残るもの。素晴らしいショーだった。

 

川崎水族館

ゆるファンをしているアルゴナビスのコラボで訪問。

淡水魚の水族館は珍しいと思う。小規模ながら、知らない魚がたくさんいて、生態も個性的で面白かった。どの水槽も魚が生き生きしていて元気なのが印象的。ネイチャーアクアリウムの系譜を感じる美しい水槽レイアウトも見応えがある。一般的に趣味として飼われる魚は飼いやすさの観点から淡水魚が多いのかもしれない。素人考えだけど、その影響なのかな。

 

AKB衣装展/大丸百貨店

私は乃木坂一辺倒で、AKBや他のアイドルのことはあまり詳しくないのだが、長年に亘る愛に溢れる仕事、魅力的な衣装たちに胸がときめいた。卒業ドレスを多数見ることができたのも嬉しかった。ひとりひとりのアイドル人生の最後を彩る大切なドレスたち。素敵でした。

渡辺麻友さんのドレス

概ね三日坊主

風邪をこじらせて引きこもったのを機に、日記をつける習慣もなくなってしまった。いつもこんな感じで何事も長続きしないが、それで落ち込んだりもしないのが私の良いところだ。

かなり時間が経ってしまったものもあるが、見たものについて感想をちょこちょこ書いていたので、残しておく。

 

泉鏡花『夜叉ヶ池』/PARCO劇場

こういうタイプの舞台は久しぶりだった。個人的にはあまり好みではなかったのだけど、妖を演じるダンサーさんたちが楽しそうで生き生きしていたのがよかった。

雨乞いのために美女を裸で馬にくくりつける村人のエロコンテンツへの執着、怖すぎる。雨乞いのためという大義名分のもと正当化される狼藉。走り出したら止まらない集団心理の悍ましさを感じた。

 

ヴェルディリゴレット』/新国立劇場

シンプルな舞台セットの光の当て方やちょっとした構造の変化で場面転換をする演出がスマートで、死の海が華やかなパーティーに変化したりする示唆的で抽象的な表現がとても良かった。

リゴレットは社会的弱者で、他者から虐げられる被害者である一方で、他者を積極的にいたぶり嘲笑う加害者でもある。娘が辱めにあい怒り狂う父親を一笑に付す一方で、自分の娘を溺愛し過保護なまでに守ろうとする。そうした二面性がリゴレットの面白いところだ。相反するようでいて、足し引きで精算されるものではない、人間の清濁の生々しさがある。

それにしてもマントヴァ公爵のどこが良いのか全く理解できない。顔?でもなんていうか、堂々と威厳ある振舞をしながら、どこか満たされない淋しさを持った男が「モテる」んでしょうね……。ジルダからも、殺し屋の妹からも、哀れまれている。ずるいやつだ。

 

プッチーニトゥーランドット 』/METライブビューイング

演出が今まで観たトゥーランドットで一番好みだった!画的に華やかでメリハリが効いていて、絵画的だった。正義と美と愛のどれもが滅茶苦茶な暴力性を発揮する物語をどう纏め上げるか、表現の幅が広い作品だと思うが、美しさを突き詰めながらも残酷さから目を逸らしていないところが素晴らしかった。クライマックスで感極まるカラフとトゥーランドットの前を、俯いたティムールがリューの死体を引いて横切る演出は、なかなかショッキングだ。

演者も素晴らしくて、トゥーランドットの威厳、カラフの輝かしさ、リューの透明感、三者の声質が活きていた。特にリューは印象的な美声。また聴きたい。

 

少年社中『三人どころじゃない吉三』/紀伊國屋ホール

少年社中節が効いていて楽しかった!!元気出た。

三人吉三の時点で結構人間関係がややこしい話だと思うが、この話を下敷きに更に大胆にアレンジしているので、ちょっとだけ頭が疲れる。でもそれを上回る爽快感と面白さがあった。

ちょっと行っていない間に紀伊國屋ホールの椅子がフカフカになっていて嬉しかった。

 

Shakespeare's R&J』/東京芸術劇場

4人の男子学生が夜中に寮を抜け出してロミオとジュリエットを演じるお話。

名もない4人の学生について語られることがないまま、演じる彼らを通して彼らに触れるような、不思議な舞台だった。

演じる身体、演じる心。夜の帳に隔てられた学生の世界と芝居の世界。演じながら、現実と芝居の境界はときに曖昧になり揺らいでいくそのあわいの表現がすばらしかった。

更にこの舞台は「役を演じている学生を演じる」二重構造になっているところが、一層面白く感じられた。一度だけしか観なかったけれど、くりかえし観ることで色々な捉え方が出来そう。

 

日高川入相花王』『鷺娘』/シネマ歌舞伎

日高川入相花王のほう何も調べずに行ったので、観始めてから、道成寺だ……!と驚いた。人間が人形浄瑠璃の人形を演じる人形振りで、本当に人形にしか見えなくて面白かった……!人形遣い役の方とも息がぴったり。人形を演じるってすごく肉体的な負荷が大きそう。

鷺娘は衣装替えのたびに場面転換があって、ひとつひとつのコーディネート、舞踊、視覚効果の粋といった感じだった。

 

太宰治『新ハムレット』/PARCO劇場

一人一人のキャラクターが素朴で理解しやすくなっていて、コミカルな中にリアルな心の動きがあって、面白かった。ああ、こういう人いるなあ、と感じる。

(書き留めていた感想が消えてしまって、記憶も薄れているのだけど、ぜひまた観たいと思う舞台でした。)

 

チェーホフ『かもめ』/ナショナルシアターライブ

演出が示唆に富んでいて面白かった。観た後はずん……と重い気分になった。

登場人物が全員身勝手。最初、理解できないな〜!と思うのだけど、この人たちが抱えているどうしようもない身勝手さって普遍的なものなのかもしれないと思う。

ボリスから見たニーナって凡庸な小娘でしかないはずなのに、何が魅力なんだろうと思ったけど、自分の口で語っていたように「美しいかもめを退屈まぎれに破滅させた」だけなんだな。
彼にとって恋とは、美しい鳥や珍しい花をどうしても手に入れたいと思うような単純な欲望で、だからこそ強い衝動なのかもしれない。作家として自分は凡庸だという苦悩や葛藤がそうさせるのかもしれない。とても自己中心的な感情で、そこに敬愛はないし、彼女の内面には興味がない。

だけどニーナの愛や献身だってエゴイスティックだし、コースチャもそう、儘ならない自己認識、さみしさ、名誉欲、それを埋める他者への渇望。

なりたいものになれなくて、他者から見たらそうなれているように見える人も虚しさを抱えていて、想いを向けられる人間は想いを向ける人間を残酷に扱う。地獄みたいなハチクロ

ところで、NTLiveを観ていると、現地の観客の笑い声が入るタイミングが意味不明すぎていつも戸惑う。別のもの観てる?フルハウス

後から合成している可能性もあるけど、それなら尚更分からない……。もはや笑いのセンスの違いとかそういうレベルではない。謎です。

 

7月分に辿り着かなかったが、とりあえず1回投稿しておこうかな。

遅くならないうちにまた書きます。

「白馬に乗った王子様」の、その先

METライブビューイングでローエングリンを観た。

この作品は演出違いでいくつか観ているけれど、毎回違った印象を持って面白い。今回の演出はスターウォーズのような雰囲気(と言っても、実は私はスターウォーズを観たことがないので的外れかもしれない。想像上のスターウォーズ)。宇宙戦争の後の荒廃した帝国のようなポストアポカリプス的雰囲気の地下のシェルターの中に舞台となるブラバント公国がある。そこへやってくる異邦人のローエングリンはビジネスマンのような白シャツ。なんか、ローエングリンが白シャツ着せられてる演出、前にも観たな……。そんなイメージ?と思うけど、敢えて立派にしすぎないようにしているのかも。マスゲームのような合唱の衣装は、最初ちょっと直接的すぎない?と思ったけれど、舞台が進むにつれて鮮やかに巧妙な機微を示し画面を印象的なものとしていた。カメラワークもかっこいい。

本作のヒロインであるエルザに対して、私は、嫌いではないにせよパッとしないイメージを持っていた。純粋で優しいけれど、オルトルートに付け入られ騎士を信じきれずに約束を破ってしまう、無垢で愚かなお姫様。今回は、そんなエルザの心の揺らぎや切実さがリアリティを持って伝わってきて印象的だった。翻訳との相性もある気がするし、エルザ役のT・ウィルソンの歌唱力や演技力による部分もあると思う。
「自分の素性や名前を尋ねてはならない」という条件で騎士はエルザを救い、エルザはそれを承諾した。疑問を持ってはいけないという立て付けと、その無垢な信頼が綻び訪れる破滅は、教訓めいたものにもなり得るし、もっと実存的な問いかけにもなり得る。絶体絶命の危機にただ祈るしかできなかったエルザに訪れた、夢に見た輝かしい騎士様は、その状況においては唯一のよすがで、エルザにしてみれば「信じる」一択だ。だけど弟殺害の疑いが晴れ地位を回復したときに、油断や綻びが出てくるのはとても人間らしい。勝手なようだけど、そもそも孤立無援で冤罪の裁判にかけられている状態の方が異常ではある。エルザは育ちがよくて純粋で優しい箱入り娘。自分を貶めたテルムラントとオルトルートが、自業自得で(むしろ温情をかけられて)追放処分となったのに、彼らにちょっと被害者面されただけで同情してあっさり赦し、憐れみをかけ、騙されてしまう。オルトルートが言うように彼女の甘さや傲慢さが彼女の破滅を招く。ただ、普通に騙す方が悪いし、今回のオルトルートは清々しいほどの悪役に徹していて、それがまたとても良かった。C・ガーキーのインタビューで「オルトルートを演じるときは、ここに居る人間で自分だけが唯一正しいと思ってやっている」と語っていたが、まさしく、そうでなくっちゃ!と思った。オルトルートはキリスト教と対立する古い神の信仰を持っていて、それは正義と悪ではなく、正義と正義のぶつかり合いだ。やり方は完全に悪役だけど、大義のために偽善をも肯定するのがオルトルートだ。

話が逸れたが、そのオルトルートによって2幕でエルザに植え付けられた不安の種は、3幕でついにこらえ切れずに萌芽する。最初は、騎士が持つ苦しみを分けてほしい、自分にだけは本当のことを教えて欲しいという傲りにも似た懇願だった。それを拒絶され、説得されるほどに、エルザの不安は性質を変えて大きくなっていく。信じてもらえない自分と、未来への不安。騎士の正体を訊いたところでそれが解決するわけではないのだけど、答えてもらえないことそれ自体が不信の種になっていく。その不信とは、相手への不信以上に、自分自身へ自信のなさだ。ローエングリンはエルザを安心させようと、自分の素性を語らないまでも、輝かしい背景を持つ人間であることを示そうとする。それを捨ててでもエルザを愛する、エルザが自分を信じることの価値はその犠牲に勝ると言う。それが逆効果で、「犠牲」だなんて言うから、自信を失っているエルザは余計に不安になってしまう。自分の美しさが衰えたら、その価値判断は逆転するのではないか。ローエングリンの答えとエルザの本質的な戸惑いは食い違っていて、決定的な破滅を招いてしまう。ローエングリンは大げさな話だけど、実際のところ、素朴な人間関係のすれ違いが描かれている。

音楽的な観点から、ローエングリンのテーマとエルザのテーマは調が隣り合っているけど調和しないので結末を暗示しているという解説があったが、まさしく近いようで噛み合わない彼らの問答を象徴しているように思う。

 

ところで、今この記事を書こうとして気づいたけど、春祭のニュルンベルクのマイスタージンガーとタイアップキャンペーンをやっていたみたい。両方観たのに気付かなかった……。金額云々より、「あっ、やっちゃった」という気持ち。

とはいえ、マイスタージンガーローエングリンを一緒に観ることで見えてくるものは確かにある。両者ともに、内容にドイツのナショナリズムを感じる作品だし、実際に政治的に利用されてきた歴史を持つ。「芸術と政治は別」とよく言われるし、私もそういう考えを持つ方だけど、でも、完全に切り離すことも難しい内容だと思う。今の感覚でまともに受け取ると引っかかるような箇所はどうしてもある。それはその時代のものであって、全て現代の物差しで測るのも違うとは思うけれど、現代に上演するからにはそれは現代の作品としての価値をもつ。そういった作品をどのように表現して見せるかも、興味深い点のひとつだ。

ローエングリンの幕間のインタビューでもこういった話があった。
作品は時代を経る毎に普遍的な意味を持ち、観られ方も変わる。現代において観客が関心を持つのは、恋人たちのことや、肩書を取り払った自分の価値といった個人的なテーマで、それは本来想定されていた以上の意味を持つだろうと語られていた。観劇の体験は観客のものだと思うので、その変質に対して肯定的である点に救われるし、創る側の観点としても、時代に合わせたテーマにフォーカスして魅せることができるのが演劇的表現の面白いところだと思う。脚本は変わらなくても、演出は変化していく。変わらないものと変わりゆくものがあって、作品が継承されて行く。舞台は生き物だと言われるが、長い目で見たときにも、それは生命の営みに似ていると思った。

 

www.shochiku.co.jp

きらめく季節

寺山修司の五月の詩が好きで、ずっと五月生まれに憧れている。

美しい季節がやってきた。私は風邪をひいて家に籠っている。

 

冬の間に川合玉堂に興味を持ち、ついに先日青梅の玉堂美術館へ行ってきた。

年代順に展示された作品はどれも素晴らしくて、その場所の空気の温度や湿り気、吹き抜ける風が感じられるようだった。瑞々しい風景画、スケッチに宿る緻密で誠実な観察眼と美意識、動物や人物のユーモラスな表情、どれも宿した水の存在や時の流れを感じるところが好きだ。

とても素晴らしかったが、小さな美術館なので、もっと見たいという渇望がかえって強くなってしまった。調べたところ、翌日まで東京国立近代美術館で「行く春」が展示されているという。

矢も楯もたまらず、そのまま翌日の予約を取って「重要文化財の秘密」展へ。

 

こちらの展覧会がまた面白かった。

目当ての川合玉堂の「行く春」ははらはらと舞い散る華やかな桜の花びらの透明感や繊細さ、流れる水の存在感、咲き誇る桜への敬意とその中にある人々の生活、行く春を愛おしむ眼差しが感じられて、その世界観に浸れる時間を幸福だと思った。観に行ってよかった。

隣にあった下村観山の「弱法師」はドラマティックな構図で、端から観ていくと最後に夕日が浮かび上がり、心に強い印象を残す。梅の中にたたずむ弱法師の情景と、弱法師が思い浮かべた沈む夕日の情景がリンクして、一本の映画のように感じられる屏風だった。

このほか、松岡映丘「室君」の表情豊かで多面的な情景の描き方が興味深かったし、横山大観の「生々流転」を一気に見られるのも貴重だった。教科書で見たことがある「鮭」や「湖畔」、「麗子微笑」などが一堂に会していることも興奮した。「麗子微笑」は祖母が好きだった絵だ。私は印刷物で観たときは全然良さが分からなくて、なんだか不思議なバランスの絵だと思っていたけれど、実際に実物を見たらその柔らかく穏やかな光にとても惹きつけられた。あらゆる絵画に言えることだと思うけれど、やはり生で観ないと本当のよさは分からないものだ。

この展示の面白いところは、ジャンルごとに分けたエリアで、発表年順に並べつつ、重要文化財に指定された年を明示しているところ。すぐさま認められるとは限らないし、その時代の価値観が認定に反映されていて面白い。「その時代の価値観」というのは必ずしも一様ではなく、バランスをとるような動きもあるなと思う。

できれば会期中にもう一度観に行きたい。

 

「重要文化財の秘密」 問題作が傑作になるまで 公式ウェブサイト

なんだかやたら凝ったウェブサイトだが、これも今の価値観(の、ひとつ)ってことなのかな。

ミュージカル『GYPSY』2023年4月29日ソワレ

1週間ぶり、3回目の観劇。

観る前は、3回は多かったかな、面白い舞台だけど、またあれを観るのは辛いなと思っていた。観終わった今、お話の内容は知っているものと全く同じなのに、先週までとは全く違った感覚を抱いている。ただただ圧倒され、カーテンコールで行き場のない興奮を、溢れ出す思いを、冷めやらぬ熱を拍手に託した。これだから観劇は辞められない。

ローズのことを全然好きになんかなれないし、その行いは許容できるものではないと思っているし、独りよがりで身勝手な人だと思う。だけど、彼女の思いが私に届いてしまった。分かりたくなんかなかった、だけど避けられない普遍的な苦しみが、満たされない人生の叫びがそこにあった。

 

ローズはパワフルなステージママ。キッズショーに乱入し、他の子を押しのけて自分の子を目立たせるように要求する厄介な母親だ。

二人の娘のうち、華やかで歌やダンスの才能に恵まれた妹のジューンをスターにすると意気込んで、地味で歌やダンスの才能がない姉のルイーズはその引き立て役くらいにしか思っていない。小さな町で平穏に暮らすなんて耐えられない、子供たちの夢を叶えるのだと言って家を飛び出し、道中でバックダンサーにする男の子たちを攫い(!?)、ローズに惚れ込んだ男ハービーの助けを借りながら、ジューンを主役としたオリジナルの公演を強引に劇場に売り込んで旅をする。

子供たちのためにと全身全霊を捧げ突き進むローズが、子供の意志を確認したことはない。これがアナタの夢、そうでしょう、私が叶えてあげる、約束するわ。ずっとこの調子だ。メチャクチャなことを言っているのに、断片的には前向きで建設的で魅力的に聞こえる言葉をポンポンと矢継ぎ早に大声で捲し立てるローズのやり方は、こういう人居るよねと感じさせるリアルさがある。それが欺瞞であることは明らかなのに、その強引さから一定の成果は出してしまうから、なんだかんだ凄い人だと周りに持ち上げられてお山の大将になり、現実からはどんどん乖離していく。企業でもよくあることだ。

 

ローズの作る公演はずっと変わり映えがしないチープなキッズショーで、そのショーを披露し続けるために、十代も半ばになったであろう子供達をいつまでも小さな子供みたいに扱う。誕生日のケーキの蝋燭は10本から増えることはない。

「あの子達を寝かしつけないと」

「どんなに押さえつけても彼女たちは成長していてもう立派な女性だ。俺はあの子達を前にするとどぎまぎするよ」

「あら、まだまだ赤ちゃんよ!」

ローズとハービーの会話。

「本当のことを教えてちょうだい。あなた、歳はおいくつなの?」

「9歳!もうすぐ10歳になる、9歳!」

「こんなことが、いったい何年続いているの!」

オーディションを受けた劇場の事務員と娘たちの会話。

ローズのやっていることはおかしい。みんな分かっているのに、誰にもどうしようもできないまま、ローズの大波に攫われて置き去りにされる。

 

オーディションを受けた劇場で、母親が子離れすることを条件にジューンを女優にスカウトされる。ショービジネス界の重鎮からの提案で千載一遇の大チャンスだが、ローズはそれを拒絶する。母親から娘を引き離すなんてとさも倫理的観点から怒っているかのような詭弁を弄しているが、明らかに、実際はジューンが居なくなったら自分が困るからだ。これをきっかけにジューンはダンサーの男の子と駆け落ち、男の子たちも全員去っていった。するとローズは、今度は自分のいないジューンなど価値がないと言い放ち、自分がジューンをスターにした手腕で今度はずっと蔑ろにしてきたルイーズをスターにすると言い出す。自分が捨てられたと分かった途端、あれだけチヤホヤしてきたジューンや散々利用してきた男の子たちに罵詈雑言を浴びせるローズ。新しい夢物語を熱く語るローズ。ママの才能は自分が作ったものを素晴らしいと信じ込む才能だと語ったジューンの言葉がよぎる。

怯えたように、震えるように小さく首を横に振るルイーズがそれに抗う術はない。散々蔑ろにされてきても、母のつくる世界で生き、母を愛し、母の愛だけを求めてきたルイーズは、それでもやるしかない。しかしルイーズにジューンの真似事をさせてもうまく行くはずがなく、一家の生活はさらに厳しくなる。辿り着いた先はバーレスク。警察の目を誤魔化すためのダミーのショーの仕事だ。バーレスクでショーをやったらボードビルではおしまい、これはハービーが間違えて取ってきたのだとローズは帰ろうとするが、ルイーズが引き留める。もうここでしか演れない。ここで、本当はローズも、「おしまい」を分かっていたのだと思う。言葉の端々に、もう続けられないこと、ルイーズが本当はやりたくなくて、生きるためにやっていることを理解していることが滲んでいた。ローズはずっとめちゃくちゃを言っているけど、馬鹿ではなくて、分かっていてめちゃくちゃをやっているのだ。タチが悪い。

おしまいを受け入れるとともに、ローズはハービーにプロポーズをする。ずっと結婚を望んでいたハービーは舞い上がり、ルイーズも大喜び。公演の最終日に結婚することを約束する。しかしバーレスクでショーを終えるその日、花形ストリッパーの欠員が出る。その話を聞きつけたローズは、娘のルイーズが代打で出ると(勝手に)言い放つ。意気消沈していたローズが堰を切ったように娘のストリップショーの企画演出を始め、ルイーズは戸惑いながらも操られたかのように指示に従い準備を始める。その様子に愕然とし、限界を悟って去っていくハービー。

「ジプシー・ローズ・リー」と名乗ったルイーズはストリップの世界で才能を開花させる。ひとつの道が潰えて、ひとつの道がひらけた瞬間だった。

ステージに立つまでのルイーズの覚悟と不安の揺らぎ、ほんとうの名前とは違う芸名を口にした途端にその「役」が目覚めるその瞬間の変化、一気に花開くように変化していくルイーズがスター街道を駆け上がる様には圧倒された。自信を身につけ、今までのルイーズとは全く違う佇まいになっていくのに、一歩一歩踏みしめるたしかな説得力があった。ハービーが、ローズが「貴婦人」と呼んだルイーズは、その気品を持ち味とした妖艶なショーを自分の武器に仕上げたのだ。

 

ルイーズがストリッパーのスターになってもローズは纏わりつき、ルイーズの世話をしようとする。ルイーズは全てを自分で決めて、母の干渉を拒否する。ローズは自分が必要とされないと理解するとまた攻撃に転じる。みんなあんたのこと笑ってるわ、ヘタクソなフランス語を話し本のレビューを本だと思って読む女だって!

周囲からの眼差しが決して温かいものだけではないと理解しながら、清濁併せ呑む覚悟を持ち、今の自分は幸せだと毅然として答えるルイーズは、美しかった。

私が誰のために必死で頑張ってきたと思ってるのと縋るローズ。

「私のためだと思ってたよ、ママ」

この言葉を背に、ローズはルイーズの楽屋を後にする。

最後の苦しそうなルイーズの台詞にはルイーズの割り切れない愛憎が端的に詰まっていて、何度も噛み締めてしまう。

あなたのためと言われて、ルイーズもそれを信じてきただろうし、ローズ自身もそう信じ込んでいただろう。実際はローズ自身のためでしかないと、二人とも薄々分かっていながら、蓋をしてきただろう。だけどいつしか限界が来たとき、歪な関係の結果がたしかに実を結んでいて、そこにある結果について完全に切り離すこともできなくて

言葉にしてしまえばどこかで割り切ることになるけど、割り切りきれない絡まった気持ちが、これ以上ない形で重さを持って届いた。

 

ステージママとしてがむしゃらに努力してきたけど、みんな自分を捨てていく。自分には何もない。私なら娘たちの誰よりも上手くやれたのに、スターになれたのに、生まれるのが早過ぎて、始めるのが遅過ぎた。なぜここまで頑張ってきたのか。何のために。自問自答の果て、「私を認めて欲しかった」と吐露するローズ。その思いは、ずっとローズに認めてほしかったルイーズの思いと重なる。

楽屋から出てきたルイーズが語る「お母さんなら、何者かになっていたと思うよ。私みたいに、押し上げてくれる誰かが居たら」という言葉は、ローズがしてきたことを承認する言葉でもある。大丈夫よ、ママ、とローズを抱きしめて語りかけるルイーズに、何も解決せずとも、何かが救われるような思いだった。ルイーズが自分のコートをローズに羽織らせると、ローズがいつものようにいたずらっぽく笑う。

「同じサイズの服が着られるなんて、不思議ね」

「夢を見たの。私とあなたが並んでお揃いのドレスを着た劇場のポスターが貼ってあるの。タイトルは、マダムローズとその娘ジプシー!」

 

……とんでもない話である。

だけど、ローズの苦しみは、叫びは、決して他人事ではない。誰だって同じだ。誰だって、自分を必要として欲しくて、認めて欲しくてたまらない。人間はみんな寂しいんだ。

 

全く美化されないし露悪的でもないありのままの人間のエゴが炙り出される。情熱に溢れ、容赦なく、どうしようもない、だけどそれでも生きていく強さを持った、人生讃歌なのだと思う。今までに観たことがないような作品だった。

現在大阪公演中だが、演者さんの歌唱力も演技力も素晴らしく、どのキャラクターも懸命に舞台上で生き抜いている力強い作品。機会と勇気があったらぜひ観てほしい。

 

gypsy2023.com

 

早寝早起き/4月

4月は仕事が忙しくあっという間だった。

この間に、無理のない早寝早起きを実現した。私としては大変な偉業。

23時に寝ているが、この調子で22時には寝てやりたいものだ。

 

合間を縫って観たものなど。

今回もまとめて書くけれど、これ以降はもう少し細かく日記スタイルにしていきたいな。忘れちゃうし……。普通の日記も書きたい。

 

劇場版アルゴナビス『AXIA』

私は劇団「少年社中」が好きなので、その主宰である毛利さんが手がけるメディアミックスプロジェクトとしてアルゴナビスのことはゆる~く知っている。アニメを観たのと、ジャイロアクシアの小説を読んだのと、前回の映画を観たくらい。

この映画の世界には現代のような精神医療の概念や知識はないものと思って観て欲しいと友人に言われたので、そのように観た。それでも衝撃的な部分はあるが、面白かった。

激しい心象が映像に反映されており、演劇的で前衛的な映画だった。

目まぐるしく激しい内容でとても疲れるので、DVDなどが出たら改めてゆっくり咀嚼したい。

 

ヴェルディ/歌劇『アイーダ

新国立劇場にて。

ヴェルディのオペラって、人間関係が複雑でストーリーが骨太で好き。人間味があるんですよね。褒美は何が良いか聞かれて捕虜の解放を願ったのは人道的な判断だと思うけれど、あのときアイーダが欲しいと願っていれば拗れなかっただろうなと思う。でも、それがラダメスの良いところなんだよね……とも思う。

それにしても、アイーダは2幕を観るためだけでも劇場に足を運ぶ価値がある。多幸感。不況が続き、日本は貧しくなったと言われるけれど、とこしえにこのような華やかで煌びやかな舞台を観られる世界であって欲しい。

 

東京都美術館/レオポルド美術館 エゴン・シーレ

時代が近いせいか、若くして認められながら夭逝し活動期間が短いせいか、画家の人生が生々しく感じられる展示だった。周囲の人物や時代の変化に影響を受けていく等身大の変化が見てとれた。

透明感のある色彩センスにこだわりを感じる。ドローイングがとてもオシャレ。

早熟だけど、完成した人というより、長く生きていればきっとあと何段階か変化があった人だと思うので、ここからというところで亡くなってしまい残念に思う。

 

ワーグナー/歌劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー

春祭ワーグナーシリーズ。

マイスタージンガー前奏曲っていろんな場所で聴く気がするのだけど、実際にどこで聴いたかは記憶がない、不思議。

一人一人のキャラクターが濃く案外俗っぽいので面白い。ずっと誰が大会で優勝して美女と結婚するかって話でもめてたのに、最後急ハンドルでドイツの神聖な芸術に敬意を払え!!ドイツ万歳!!になるから驚く。

気取ったことを言っているけど、どちらにせよ酒場の親父さん達って感じかもしれない……。

 

ミュージカル『Endless SHOCK Eternal』

エンターテイメントのひとつの極致。ジャニーズの人って空を飛ぶと思っていたので、まさしくそれで嬉しかった。テレビでは見たことがあるパフォーマンスだったけど、目の前にくるとやはり興奮するし、特別な体験だった。

私はヒロイン・リカ役の中村麗乃ちゃん目当てだったので、ファンクラブ先行もなくこのチケットを手に入れるためにだいぶ苦労したが、経験としてとてもよかった。

ストーリーはちょっと色々……よく分からないところや驚くところもあったけど(Eternalで端折ってるせい?)、細かいことが気にならないくらい、キラキラして夢みたいな時間。

女の子のアイドルも男の子のアイドルも好きだから、可愛い男女のペアダンスとか本当はたくさん観たいのだけど、なかなか観られないので、貴重な供給だった。もっとこういう演目があればいいのにな。テレビとかでも、観られたらいいのにな……。

 

渋谷松濤美術館エドワード・ゴーリーを巡る旅

中学生のころに好きだったエドワード・ゴーリー。ダークで不条理な世界観の絵本作家。ナンセンスな言葉のセンスに洒脱感があって、日本語の翻訳がまた秀逸だと思う。

緻密な仕事に宿る矜持や、彼自身の生活や人生に根差す美意識を肌で感じられたことがよかった。バレエが好きだとは知らなかったけれど、バレエ関連の仕事もシニカルなスタイルそのままにこなしていた。バレエでつま先立ちをするのはこの世ならざる者の浮遊感を表現するため、と聞いたけれど、そういうところがゴーリーの感性と合っていたのかもしれないなと想像したり。実際はどうか分からないけど。

展示替えもあるし、開催期間中にもう一度くらい行きたい。

 

ミュージカル『GYPSY』

ジプシー・ローズ・リーの回顧録を基に、その母ローズに焦点を当てたミュージカル。大竹しのぶさんが主演で、生田絵梨花さんは娘のルイーズ(=ジプシー・ローズ・リー)を演じる。

母ローズは「究極のステージママ」という言葉から想像される何十倍もの猛毒を持つ女性で、観ていてずっと恐ろしかった。大竹しのぶさんのチャーミングでパワフルな演技が、底知れないエネルギーを感じさせて恐ろしい。

自分が叶えられなかった夢を娘に肩代わりさせて、理想を押し付けて支配下に置いて、あなたのためと言い放つ呪い。悍ましい所業を淡々と美化せずに描く眼差しの冷徹さ、空気の粘度。どんなに好き放題振舞っても、結局自分自身に向き合わないまま「子供のため」だと信じて「努力」してきたから、いつまでも本心は飢え、欲望は渇いているし、自分には何もないと思ってしまう。そういう虚しさは、多くの人が持ちうるものだし、最後に「同じサイズの服を着て隣に並ぶ」母子の姿は、ようやくその視座を得たということなのかな、と思った。その後の悪びれない様子から、きっと彼女は今後も変わらないだろうと思うけれど、堂々としたその佇まいはどこか憑き物が落ちたような爽やかさもあった。

生田絵梨花さん演じるルイーズは、幼い頃は母の寵愛を受ける妹の影に隠れて蔑ろにされてきた姉娘。キッズショーに出るために10歳から何度誕生日を迎えても10歳のままの小さな娘として扱われ、学校にも通わない彼女は年よりもずっと幼く見える。母の愛を渇望しながら妹に嫉妬するわけでもなく、一人空想の世界で満足している姿はいじらしく痛々しい。そんなルイーズが、徐々に自我を獲得していく様や、バーレスクでの公演からストリップショーに出ることになり刻々と変化し開花していく様は目を瞠るものがあった。これほどまでに振り幅のある役を、一人の人格として一貫性を持ったものとして魅せていて、素晴らしかった。彼女の気品が、貴婦人ルイーズが魅せる「エクディジアスト」としてのパフォーマンスに説得力を持たせていた。

全然いい話なんかじゃない、だけどいい話として描いていないからこその思い切りの良さを感じる作品。美化されない等身大の人間の生き様がただそこにあった。

美と快楽/2月と3月の雑記

綺麗なものと楽しいことが大好きだ。大抵の人はそうだと思うし、だからこそ、人は美と快楽のため争い血を流す。

血を流すのは美しくも楽しくもないので、文章でも垂れ流しながら、自分の思う美と快楽を追い求めていけたらいい。観たもの聴いたものを書き留めておけば、後で役に立つこともあると思う。

 

2月、3月は活発に出歩いていた。折角なので簡単に記しておく。

 

ミュージカル『MEAN GIRLS

2004年のアメリカの映画『Mean Girls』を、2017年にアメリカでミュージカル化した作品。主役のケイディを演じるのは生田絵梨花さん、演出は小林香さん。大好きなミュージカル『ナターシャ・ピエール・アンド・ザ・グレート・コメット・オブ・1812』のコンビだ。

肝心の内容は、最初はあまり自分には合わないかもしれない、と思ったけれど、マイナスの印象から入って、繰り返し観る中でそれを咀嚼していく過程が面白かった。最終的には個性的なキャラクターたちが皆大好きになった。とってもパワフルな作品。

冒頭にわざわざ公開年を書いたのは、若者の話だからこそ、その時代の空気感や価値観が色濃く反映されていると感じたから。舞台設定は90年代~00年代の空気感でありながら、ミュージカル化された2017年頃の時事ネタが入っていたり。この20年、30年で人々の価値観は大きく変わって、「そういうの、よくないよね」という共通認識が出来上がっていることが笑いになっている点に居心地の悪さを感じたのが最初の感想。きっと私の性格からすると、90年代00年代に同じものを見ても笑えなかったと思うけれど、今の時代に観るとそれ以上に倫理的な不安感が大きかった。

だけどその部分を自分の中で切り離してみれば、もう少し深い部分が見えてくる。

全員が傷つけあって、ちゃんとダメになって、それでも前に進むパワーに勇気を貰える作品だった。

 

マスカーニ/歌劇『田舎騎士道(カヴァレリア・ルスティカーナ)』
レオンカヴァッロ/歌劇『道化師』

オペラに文楽の手法を取り入れて、歌手とダンサーの二人一役で演じるという、上田久美子さんによる斬新な演出。とにかく情報量が多かった。舞台上には役の倍の人数がいて、ダンサーも歌手もそれぞれにそれぞれの形で「演じて」いるし、イタリア語の歌唱に字幕は英語と一般的な日本語訳と関西弁の意訳がついている。目も脳も足りない。観終わった後はとにかくドッと疲れた。だけど作品は面白かったし、演出も面白かった。

道化師は大衆演劇の一座に翻案されていて、これがなかなかしっくりきた。ネッダ(寧々)の自我のアンバランスさが、どこか旧時代に取り残されたような社会に囚われた若い娘の境遇として飲み込みやすい。

旅回りの劇団という点では道化師の元の設定と同じだ。根無草であるということは、劇団の外に頼れる人もいないということで、分解不可能な「家族」のような関係性の濃さと閉塞感がある。劇団そのものが、世間から隔絶された鳥籠になる。その毒はネッダにも、カニオにも回っていたのかもしれない。他に選択肢がないという思い込みに対する裏切りは、カニオにとって脅威に他ならない。そんなカニオが最終的に「選択」したのは、彼自身を道化として縫い止めることでもあり、業の深さを感じる。とんでもないものを観た、という感覚が強くあった。

カヴァレリア・ルスティカーナは復活祭のミサからだんじり祭りに舞台を変えていて、そこはやや難しいところもありつつ(関東に生まれ育ちミッション系の幼稚園や中高に通っていた私としては、復活祭のミサよりもだんじりの方が未知の文化だ)、関西弁字幕との親和性が高すぎて、「田舎騎士道」がしっかり田舎のヤンキーの話になっていて面白かった。元カノを寝取られ未練たらたらの男が代わりに婚約した女に散々DVと浮気を繰り返し、それでも縋りついてくる女をぞんざいに扱いながら、最終的に浮気相手(自分を捨てた元カノ)の夫と決闘することになり、「母ちゃん、俺に何かあったらあいつ(婚約者)のこと頼むな……あいつ寂しい奴だから……」とか勝手にエモい感じになっていて、なんだお前、そんなんでチャラにはならないぞ。本当はいい奴だなんて微塵も思わないからな。でもなんか、そういう理屈で生きてる人たち居るよねっていうリアリティがあった。

この演目の曲だとは知らなかった有名な間奏曲を聴けて感動した。こんな話にこんな美しい旋律を当てがったのか……と、客観的には場違いに感じたけれど、身勝手なエモとセンチの自己陶酔というものは、主観的にはとびきり美しいものなのかもしれない。

翻案なしの素直な演出で見ればまた違う感想を抱くかもしれないので、機会があれば。

 

舞台『蜘蛛巣城

シェイクスピアの『マクベス』を元にした黒澤明監督の『蜘蛛巣城』を赤堀雅秋さんが舞台化した作品。舞台が日本の戦国時代になっていることで、日本人として下剋上上等の世界観が前提として飲み込みやすくなっている。

マクベス夫人にあたる浅芽の主体性が印象的だった。男が主役の戦国時代において、周囲の目をよそに夫を選んだ自分の目を信じ、夫を動かし、自分の人生を切り拓こうと誰よりも野心を滾らせていたのは浅芽に見えた。その野心が大きければ大きいほど、その報いは彼女の身に余るものとして襲いかかり、発狂に至る業の深さを生々しく感じられた。

マクベスにあたる鷲尾が周囲の人間に翻弄されながら忠義と野心と人間としての情との間で揺れ動く様も、人間らしい迷いが感じられて、魅力的だった。

マクベスに予言を与える三人の魔女は、本作では蜘蛛手の森で出会うひとりの怪しい老婆となっていて、物怪という設定だけれど、破滅的な悪意を持った人間にも、出鱈目を謳う狂人にも見える。元々、シェイクスピアの台詞は韻文で書かれていて、意味がなくてもライムがあれば成立する(字面をそのまま受け取ることが全てではない)とすれば、魔女の言葉も意味がない詩のようなものとも取れる。結局のところ彼らを突き動かしたのは彼らの野心そのもので、魔女はそこに囁いたに過ぎない。その言葉をどう受け止めるか、自分の運命をどうするかは、結局本人次第なのだと感じた。

 

ワーグナー/歌劇『タンホイザー

新国立劇場にて。観たいなぁ、お金ないなぁ……と思っていたら、ぶらあぼさんの懸賞でチケットをいただきました。ありがとうございました。

舞台装置が幻想的で美しくて、冒頭から物語に引き込まれた。

ヴェーヌスベルクで快楽に溺れるタンホイザーキリスト教世界から見れば堕落しきった存在かもしれないけど、そのときのタンホイザー自身が良しとする芸術観であったことは違いないし、後ろ指をさされても自分の芸術的な価値観を表明するのを恐れない堂々たる主張には不思議な魅力がある(逆ギレ的な部分も否めないけれど)。ヴェーヌスは人間に捨てられた旧い神であることを思うと、タンホイザーに縋るヴェーヌスの訴えが切なくもある。

パンフレットにあった、夕星の歌の夕星は金星=ヴェーヌス、ヴォルフラムの中にも性的な愛が燻っている……というお話は目から鱗だった。タンホイザーにも、ヴォルフラムにも、エリーザベトにも、それぞれに迷いや揺らぎがある。だからこそエリーザベトの決断が救いたりえる重みを持つのかもしれない。

 

ミュージカル『RENT』

プッチーニの『ラ・ボエーム』が元になっているミュージカル。なかなかに治安が悪い。貧しいアーティストの若者たちが懸命に生きる美しさがあった。

最後はなかなか……どうなんだろう、びっくりしてしまったけど、よかった。

ところで、『MEAN GIRLS』もそうだったけど、アメリカの笑いって、とにかくスケールを大きくするような大胆さと豪快さがあるのかもしれない。ちょっと私は引いちゃって笑えない。笑いの感覚って文化的な差異が大きいんだなと感じて、だとすると、私が分かった気になっている笑い以外の怒りや悲しみ、喜びの感情も、本当は分かっちゃいないのかもしれない(勿論他人のことが全て分かるとは思っていないけど、思う以上に差があるのかもしれない、とか)。

レミゼ日本初演30周年のイベントでロンドン公演のキャストのロブ・ハウチェンさんのカフェソングを聴いたときの衝撃を思い出す。日本語版とは全く違うものに聴こえた。日本人キャストの技量が悪いとか、そういうことではないと思う。言語に宿る感覚も含めた背景に説得力が感じられて、あのとき初めてマリウスの苦しみを理解できた気がした。

だいぶ話が転んでしまったけれど、そういう文化的な背景を補ってこそ本来の味わいがある気がする。土壌がなければ水はしみこまない。観客としての自分の見分も広げていかないといけないと思う。

 

舞台『ハムレット

野村萬斎さん演出・出演のハムレット世田谷パブリックシアターに初めて行ったけれど、天井が高く、包み込むような、まるで自分が深い穴の底に居るような感覚を覚える劇場で、演目との相性も良く、没入感があった。

日本の伝統芸能の要素を取り入れたり、色々な要素が盛り込まれているのに渋滞せず纏まっている演出の手腕に感服した。盛り込む要素が血肉になっているからこそできることなのかもしれない。

オフィーリアを演じる藤間爽子さんは日本舞踊の家元も務める女優さん。以前、舞台『半神』で拝見したときも不思議な魅力のある方だと感じていたけれど、何か霊感的な透明感のある凄味が増していて、オフィーリアの気高さ、可憐さ、純真さ、聡明さ、そして狂気を全てその身に宿していた。

"To be, or not to be"は「生きるべきか死ぬべきか」と訳されるけれど、単純な事象としての生死に終始せず、生きているとはどういうことか、本当に生きているのかと問いかけてくるような、真に迫る切実さを感じた。

またいつか観劇したい舞台。

 

オッフェンバック/歌劇『ホフマン物語

『砂男』なら高校生のときに読んだなあ、砂男がコッペリア(バレエ)になるんだから何があっても驚かないぞ、くらいの感覚で、あらすじを読んだ程度で観に行ったら、まんまとやられました。面白かった。

敢えて多くは語りたくないけれど、ミューズちゃんそんな男の何が良いのよ……と思っていたら、ミューズちゃんこそとんでもない女だった。

作家は孤独じゃないといけないなんて話があるけれど……ミューズに愛された詩人の顛末。本当に面白かった。

 

ミュージカル『ジキル&ハイド』

石丸さんと柿澤さんのダブルキャスト。ぼんやりしていてチケットが取れず、柿澤さんの回を一度だけ駆け込みで観ることに。

ジキルの心情、ハイドの表現、すごく役者さんの解釈を入れ込む余地が大きい演目で、同じ人でも演じ方が違ってくるだろうし、人が変われば全然違う話にもなり得ると感じた。せめて両方のキャストで観るべきだった……悔しい。

ジキル博士の発明は「プロメテウスの火」そのもので、理想と知性に基づく傲慢は善と悪が渾然一体となっている。この薬によって善と悪を分離しようという構造そのものが面白いですよね。

善(理性)と悪(欲望)を分離した結果、悪を封じ込めるどころか、悪を司る別の人格ハイド氏が解き放たれ「自由だ」と叫び夜のロンドンに駆け出す。その結果、自分自身を制御できなくなったジキル博士は悩み苦しみ、「自由にしてくれ」と、自分を殺してくれと願う。

自我とはなんだろう、自分をコントロールできなくなった状態は「自由」だろうか。理性や善性は欲望や悪を覆い隠す仮面に過ぎずすべてが偽善であるならば、こんな苦しみがあるはずがない。善と悪がせめぎ合い、その中で自分自身の意志によって選択することにこそ人間の尊厳がある、と改めて感じた。