北極のペンギン

来た観た聴いた

美と快楽/2月と3月の雑記

綺麗なものと楽しいことが大好きだ。大抵の人はそうだと思うし、だからこそ、人は美と快楽のため争い血を流す。

血を流すのは美しくも楽しくもないので、文章でも垂れ流しながら、自分の思う美と快楽を追い求めていけたらいい。観たもの聴いたものを書き留めておけば、後で役に立つこともあると思う。

 

2月、3月は活発に出歩いていた。折角なので簡単に記しておく。

 

ミュージカル『MEAN GIRLS

2004年のアメリカの映画『Mean Girls』を、2017年にアメリカでミュージカル化した作品。主役のケイディを演じるのは生田絵梨花さん、演出は小林香さん。大好きなミュージカル『ナターシャ・ピエール・アンド・ザ・グレート・コメット・オブ・1812』のコンビだ。

肝心の内容は、最初はあまり自分には合わないかもしれない、と思ったけれど、マイナスの印象から入って、繰り返し観る中でそれを咀嚼していく過程が面白かった。最終的には個性的なキャラクターたちが皆大好きになった。とってもパワフルな作品。

冒頭にわざわざ公開年を書いたのは、若者の話だからこそ、その時代の空気感や価値観が色濃く反映されていると感じたから。舞台設定は90年代~00年代の空気感でありながら、ミュージカル化された2017年頃の時事ネタが入っていたり。この20年、30年で人々の価値観は大きく変わって、「そういうの、よくないよね」という共通認識が出来上がっていることが笑いになっている点に居心地の悪さを感じたのが最初の感想。きっと私の性格からすると、90年代00年代に同じものを見ても笑えなかったと思うけれど、今の時代に観るとそれ以上に倫理的な不安感が大きかった。

だけどその部分を自分の中で切り離してみれば、もう少し深い部分が見えてくる。

全員が傷つけあって、ちゃんとダメになって、それでも前に進むパワーに勇気を貰える作品だった。

 

マスカーニ/歌劇『田舎騎士道(カヴァレリア・ルスティカーナ)』
レオンカヴァッロ/歌劇『道化師』

オペラに文楽の手法を取り入れて、歌手とダンサーの二人一役で演じるという、上田久美子さんによる斬新な演出。とにかく情報量が多かった。舞台上には役の倍の人数がいて、ダンサーも歌手もそれぞれにそれぞれの形で「演じて」いるし、イタリア語の歌唱に字幕は英語と一般的な日本語訳と関西弁の意訳がついている。目も脳も足りない。観終わった後はとにかくドッと疲れた。だけど作品は面白かったし、演出も面白かった。

道化師は大衆演劇の一座に翻案されていて、これがなかなかしっくりきた。ネッダ(寧々)の自我のアンバランスさが、どこか旧時代に取り残されたような社会に囚われた若い娘の境遇として飲み込みやすい。

旅回りの劇団という点では道化師の元の設定と同じだ。根無草であるということは、劇団の外に頼れる人もいないということで、分解不可能な「家族」のような関係性の濃さと閉塞感がある。劇団そのものが、世間から隔絶された鳥籠になる。その毒はネッダにも、カニオにも回っていたのかもしれない。他に選択肢がないという思い込みに対する裏切りは、カニオにとって脅威に他ならない。そんなカニオが最終的に「選択」したのは、彼自身を道化として縫い止めることでもあり、業の深さを感じる。とんでもないものを観た、という感覚が強くあった。

カヴァレリア・ルスティカーナは復活祭のミサからだんじり祭りに舞台を変えていて、そこはやや難しいところもありつつ(関東に生まれ育ちミッション系の幼稚園や中高に通っていた私としては、復活祭のミサよりもだんじりの方が未知の文化だ)、関西弁字幕との親和性が高すぎて、「田舎騎士道」がしっかり田舎のヤンキーの話になっていて面白かった。元カノを寝取られ未練たらたらの男が代わりに婚約した女に散々DVと浮気を繰り返し、それでも縋りついてくる女をぞんざいに扱いながら、最終的に浮気相手(自分を捨てた元カノ)の夫と決闘することになり、「母ちゃん、俺に何かあったらあいつ(婚約者)のこと頼むな……あいつ寂しい奴だから……」とか勝手にエモい感じになっていて、なんだお前、そんなんでチャラにはならないぞ。本当はいい奴だなんて微塵も思わないからな。でもなんか、そういう理屈で生きてる人たち居るよねっていうリアリティがあった。

この演目の曲だとは知らなかった有名な間奏曲を聴けて感動した。こんな話にこんな美しい旋律を当てがったのか……と、客観的には場違いに感じたけれど、身勝手なエモとセンチの自己陶酔というものは、主観的にはとびきり美しいものなのかもしれない。

翻案なしの素直な演出で見ればまた違う感想を抱くかもしれないので、機会があれば。

 

舞台『蜘蛛巣城

シェイクスピアの『マクベス』を元にした黒澤明監督の『蜘蛛巣城』を赤堀雅秋さんが舞台化した作品。舞台が日本の戦国時代になっていることで、日本人として下剋上上等の世界観が前提として飲み込みやすくなっている。

マクベス夫人にあたる浅芽の主体性が印象的だった。男が主役の戦国時代において、周囲の目をよそに夫を選んだ自分の目を信じ、夫を動かし、自分の人生を切り拓こうと誰よりも野心を滾らせていたのは浅芽に見えた。その野心が大きければ大きいほど、その報いは彼女の身に余るものとして襲いかかり、発狂に至る業の深さを生々しく感じられた。

マクベスにあたる鷲尾が周囲の人間に翻弄されながら忠義と野心と人間としての情との間で揺れ動く様も、人間らしい迷いが感じられて、魅力的だった。

マクベスに予言を与える三人の魔女は、本作では蜘蛛手の森で出会うひとりの怪しい老婆となっていて、物怪という設定だけれど、破滅的な悪意を持った人間にも、出鱈目を謳う狂人にも見える。元々、シェイクスピアの台詞は韻文で書かれていて、意味がなくてもライムがあれば成立する(字面をそのまま受け取ることが全てではない)とすれば、魔女の言葉も意味がない詩のようなものとも取れる。結局のところ彼らを突き動かしたのは彼らの野心そのもので、魔女はそこに囁いたに過ぎない。その言葉をどう受け止めるか、自分の運命をどうするかは、結局本人次第なのだと感じた。

 

ワーグナー/歌劇『タンホイザー

新国立劇場にて。観たいなぁ、お金ないなぁ……と思っていたら、ぶらあぼさんの懸賞でチケットをいただきました。ありがとうございました。

舞台装置が幻想的で美しくて、冒頭から物語に引き込まれた。

ヴェーヌスベルクで快楽に溺れるタンホイザーキリスト教世界から見れば堕落しきった存在かもしれないけど、そのときのタンホイザー自身が良しとする芸術観であったことは違いないし、後ろ指をさされても自分の芸術的な価値観を表明するのを恐れない堂々たる主張には不思議な魅力がある(逆ギレ的な部分も否めないけれど)。ヴェーヌスは人間に捨てられた旧い神であることを思うと、タンホイザーに縋るヴェーヌスの訴えが切なくもある。

パンフレットにあった、夕星の歌の夕星は金星=ヴェーヌス、ヴォルフラムの中にも性的な愛が燻っている……というお話は目から鱗だった。タンホイザーにも、ヴォルフラムにも、エリーザベトにも、それぞれに迷いや揺らぎがある。だからこそエリーザベトの決断が救いたりえる重みを持つのかもしれない。

 

ミュージカル『RENT』

プッチーニの『ラ・ボエーム』が元になっているミュージカル。なかなかに治安が悪い。貧しいアーティストの若者たちが懸命に生きる美しさがあった。

最後はなかなか……どうなんだろう、びっくりしてしまったけど、よかった。

ところで、『MEAN GIRLS』もそうだったけど、アメリカの笑いって、とにかくスケールを大きくするような大胆さと豪快さがあるのかもしれない。ちょっと私は引いちゃって笑えない。笑いの感覚って文化的な差異が大きいんだなと感じて、だとすると、私が分かった気になっている笑い以外の怒りや悲しみ、喜びの感情も、本当は分かっちゃいないのかもしれない(勿論他人のことが全て分かるとは思っていないけど、思う以上に差があるのかもしれない、とか)。

レミゼ日本初演30周年のイベントでロンドン公演のキャストのロブ・ハウチェンさんのカフェソングを聴いたときの衝撃を思い出す。日本語版とは全く違うものに聴こえた。日本人キャストの技量が悪いとか、そういうことではないと思う。言語に宿る感覚も含めた背景に説得力が感じられて、あのとき初めてマリウスの苦しみを理解できた気がした。

だいぶ話が転んでしまったけれど、そういう文化的な背景を補ってこそ本来の味わいがある気がする。土壌がなければ水はしみこまない。観客としての自分の見分も広げていかないといけないと思う。

 

舞台『ハムレット

野村萬斎さん演出・出演のハムレット世田谷パブリックシアターに初めて行ったけれど、天井が高く、包み込むような、まるで自分が深い穴の底に居るような感覚を覚える劇場で、演目との相性も良く、没入感があった。

日本の伝統芸能の要素を取り入れたり、色々な要素が盛り込まれているのに渋滞せず纏まっている演出の手腕に感服した。盛り込む要素が血肉になっているからこそできることなのかもしれない。

オフィーリアを演じる藤間爽子さんは日本舞踊の家元も務める女優さん。以前、舞台『半神』で拝見したときも不思議な魅力のある方だと感じていたけれど、何か霊感的な透明感のある凄味が増していて、オフィーリアの気高さ、可憐さ、純真さ、聡明さ、そして狂気を全てその身に宿していた。

"To be, or not to be"は「生きるべきか死ぬべきか」と訳されるけれど、単純な事象としての生死に終始せず、生きているとはどういうことか、本当に生きているのかと問いかけてくるような、真に迫る切実さを感じた。

またいつか観劇したい舞台。

 

オッフェンバック/歌劇『ホフマン物語

『砂男』なら高校生のときに読んだなあ、砂男がコッペリア(バレエ)になるんだから何があっても驚かないぞ、くらいの感覚で、あらすじを読んだ程度で観に行ったら、まんまとやられました。面白かった。

敢えて多くは語りたくないけれど、ミューズちゃんそんな男の何が良いのよ……と思っていたら、ミューズちゃんこそとんでもない女だった。

作家は孤独じゃないといけないなんて話があるけれど……ミューズに愛された詩人の顛末。本当に面白かった。

 

ミュージカル『ジキル&ハイド』

石丸さんと柿澤さんのダブルキャスト。ぼんやりしていてチケットが取れず、柿澤さんの回を一度だけ駆け込みで観ることに。

ジキルの心情、ハイドの表現、すごく役者さんの解釈を入れ込む余地が大きい演目で、同じ人でも演じ方が違ってくるだろうし、人が変われば全然違う話にもなり得ると感じた。せめて両方のキャストで観るべきだった……悔しい。

ジキル博士の発明は「プロメテウスの火」そのもので、理想と知性に基づく傲慢は善と悪が渾然一体となっている。この薬によって善と悪を分離しようという構造そのものが面白いですよね。

善(理性)と悪(欲望)を分離した結果、悪を封じ込めるどころか、悪を司る別の人格ハイド氏が解き放たれ「自由だ」と叫び夜のロンドンに駆け出す。その結果、自分自身を制御できなくなったジキル博士は悩み苦しみ、「自由にしてくれ」と、自分を殺してくれと願う。

自我とはなんだろう、自分をコントロールできなくなった状態は「自由」だろうか。理性や善性は欲望や悪を覆い隠す仮面に過ぎずすべてが偽善であるならば、こんな苦しみがあるはずがない。善と悪がせめぎ合い、その中で自分自身の意志によって選択することにこそ人間の尊厳がある、と改めて感じた。